時事
下記はロイターのコラムです。もう、平尾が死んで3年になります。アイツとは中学で出会いました。1学年上に大八木がいて、大八木とは幼稚園へ行く前からの付き合いです。
思い起こせば色んなことがありましたが、高3の冬、ボクのチームは全国大会で負け進学は決まってたものの、心の中はもぬけの殻でした。大会で負け、身体はズタズタで、何も考えられない状況でしたから、急に自由な時間ができても何をするわけでもなく過ごしていた時、遊びがてら寄った京都駅のポルタという地下街の本屋にモニターがありラグビーの高校選手権の決勝が映し出されていました。そこには子供の頃から知っている平尾がいて、真っ赤な伏見工業のユニフォームが縦横無尽に走り回ってました。スクール・ウォーズの実モデルとなったチームです。カッコよかった、本当に平尾はカッコよくてムカつくほどでした。もう途中から場所もわきまえず涙が止まらず、アイツのチームが優勝した瞬間は体中しびれたのを覚えています。
ええ男は早くに逝った方がいいと、そう思えるほどええ男でした。
オピニオン:自由を愛する平尾イズム、ラグビー日本代表に脈々と=奥総一郎氏
奥総一郎 PwCアドバイザリー合同会社パートナー
[東京 13日] - 数々の企業を復活させてきた事業再生の請負人、奥総一郎氏(56)は、日本で初めて開催されるラグビーワールドカップ(W杯)を特別な思いで迎える。日本のラグビーを世界と戦えるレベルに引き上げ、W杯の招致に大きな役割を果たした友人、故・平尾誠二氏が心待ちにしていた大会だからだ。
グラウンド上で刻々と変わる戦況を冷静に把握し、柔軟な発想で戦術を組み立てなおす。型にはまらないラグビーを目指して平尾氏がまいた種は、日本代表が強豪の南アフリカを破った前回のW杯で花開いたと、奥氏は指摘する。
そして酒を酌み交わしながら平尾氏が語ったラグビー論は、奥氏が事業再生の仕事で壁にぶつかったときに大いに役立ってきたと振り返る。
9月20日の日本対ロシアの開幕戦、奥氏は平尾氏の思い出とともに東京スタジアムに足を運ぶ。
<2人を引き寄せたW杯招致>
平尾さんとの出会いは2010年1月、三井住友銀行の役員応接室だった。神戸製鋼ラグビー部の元選手で、39歳で他界した私の父の遺品を、当時、同行の頭取だった私の叔父(父の弟)に手渡すというセレモニーの場に平尾さんもいた。
「神戸に来ることないんですか。いっぺんゆっくり飲みませんか」。同郷で同い年だったからだろうか、以前からファンだった平尾さんから嬉しい誘いを受け、その年の3月初旬、神戸にある平尾さん馴染みの店で初めて飲んだ。
平尾さんは、私の叔父に一言お礼を言いたくて、父の遺品を届けるセレモニーについて来たと話してくれた。
自身の夢だったW杯誘致に当たり、資金調達が大きなネックとなって招致委員長だった元首相の森喜朗さんら関係者が二の足を踏んでいたところ、相談を受けた私の叔父が「お金の調達方法はいろいろありますよ」と前向きなサポート姿勢を示した。それで森さんが、「銀行の頭取が相談に乗ってくれるのだから何とかなるだろう」と招致に踏み出せたのだという。
この話がどこまで本当か私には分からないし、個人的にはかなりリップサービスも含まれているように思えるが、いずれにせよW杯招致が縁となって平尾さんと出会えたことに、今となっては感謝するばかりだ。
<日本が「世界と戦う」ことに挑んだ初めての人>
平尾さんは私が知る限り、世界に通用するチームを作り、世界と戦うことを公言して本気で挑み続けた日本ラグビー界で最初の人だったのではないかと思う。日本代表のキャプテンと監督を務めて彼が進めた多くの改革は、今日の躍進の礎になっている。
サインプレーを多用するラグビーは試合中、多くが決め事で動く。しかし、平尾さんは決めごとだけでプレーすることに強い抵抗感があり、そこを打ち破らないといけないとずっと話していた。明確なビジョンを共有しつつも、個々の判断で自発的に動かないと強くならないのだ、と。
人への関心が強かった生前の平尾氏は、京都大学iPS研究所所長・山中伸弥氏など交友関係が広かった。そうした友人らが平尾氏との思い出をつづった「友情2 平尾誠二を忘れない」に、奥氏も執筆者として名を連ねる。8月29日、東京で撮影(2019年 ロイター/Nobuhiro Kubo)
戦略・戦術は確かに重要だが、一番大事なのは戦闘経験値。ほとんどの試合は想定通りにいかない。想定を外れてからの道筋をどう描き、瞬時にどう判断するか。適切な判断を下すには多くの戦闘経験が必要で、その積み重ねが本番での自信につながるというのが彼の信条だった。
こうした平尾イズムは脈々と受け継がれ、2015年のW杯イングランド大会で花開いた。それまで20年以上、W杯でほとんど勝てなかった日本が、優勝候補の一角だった南アフリカ相手に歴史的勝利を挙げた。
相手が反則した後のラストプレー、あの場面はペナルティゴールで同点に追いつくというのが定石だろう。ヘッドコーチのエディ・ジョーンズさんも「ショット」と叫んでいた。しかし、リーチ・マイケル主将が選んだのは「スクラム」。勝利を狙いにいった。
「あの判断で、彼(マイケル)のキャプテンシーは爆発的に上がったね」。その年の暮れに食事をしながら南ア戦を振り返り、嬉しそうに語っていた平尾さんの笑顔が今も目に浮かぶ。決勝トーナメントには進めなかったが、マイケル主将が「スクラム」を判断したことが平尾イズムにマッチしていたことを心から喜んでいた。あれが平尾さんとの最後の食事になった。
<企業再生は「感情の格闘技」>
「おもろなってきたやないか」——。大きなピンチの時こそ、そのピンチを楽しみ、モチベーションを上げるのも平尾流だった。
戦略・戦術を練り上げるのは大前提で、準備に準備を重ねたその戦略・戦術が実際に思うようにいかないときこそ、「知性」が必要になる。どんなに行き詰まっても、視点をちょっと変えれば全然違う景色が見えてくる。彼はラグビーの話を通じてそう教えてくれた。
企業再生は想定通りにいかないことがほとんどだ。私が関わった案件は100件近くあるが、最初に描いた戦略通りに計画を進められたのは1件だけ。
ラグビーが「肉体の格闘技」ならば、企業再生での交渉は「感情の格闘技」。再生計画は損害を被って苛立つ金融機関、取引先、社員、経営者など多くのステークホルダーと交渉し、合意を得て進める。どんなに計画が素晴らしくても、実際に「笛吹けど踊るかどうか」という大きな壁が立ちはだかる。
煮詰まったら、少し立ち止まって別の角度から見てみる。すると、少しだけ可動域が広がる気がする。もうだめなんじゃないか。我慢する局面で全く「スペース」がない時、逃げずに向き合っていると「窓」が一瞬開く。絶対どこかに突破口がある。その一瞬を見逃すな、と。ラグビーも事業再生も同じだった。
事業再生の仕事で壁にぶつかったときに、酒を酌み交わしながら平尾氏が語ったラグビー論が大いに役立ってきたと奥氏は振り返る。8月29日、東京で撮影(2019年 ロイター/Nobuhiro Kubo)
天国の平尾さんも今回のW杯を観戦し、さらに強くなった日本代表の活躍を楽しみにしているはずだ。選手が命令された決め事でプレーしているのか、自分の判断でプレーしているのか、私はプロではないので見抜けないが、「素人は素人なりに楽しめば良い」と平尾さんはよく言っていた。
あまり難しいことを考えず、日本中がW杯で盛り上がって欲しいというのが、W杯招致に尽力した平尾さんの願いだと思う。
*奥総一郎氏:1963年、京都府生まれ。京都大学法学部卒、シカゴ大学経営大学院修士(MBA)。富士銀行(現みずほ銀行)、みずほインターナショナル(ロンドン)などを経て、2016年よりPwCアドバイザリー合同会社パートナー。事業再生の専門家としてこれまで100件近い案件を手がける。17年には品質データ改ざん問題が発覚した神戸製鋼の事業再生にも参画した。
*平尾誠二氏(1963~2016):中学でラグビーをはじめ、京都市立伏見工業高3年で全国制覇。同志社大では当時、史上初の大学選手権3連覇を成し遂げた。卒業後は英国留学を経て神戸製鋼入りし、新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。日本代表の主将・監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラル・マネージャー、日本ラグビー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事などを歴任し、「Mr.ラグビー」と呼ばれた。W杯日本大会成功の先導役だったが、開幕を見ることなく2016年10月、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。
(聞き手:白木真紀 編集:久保信博)
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