時事

最初の焦点は、貨幣供給の内生性と外生性についてです。MMTあるいはその前身である内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは、内生的貨幣供給こそが通貨制度についての正しい理解であって、正統派の最も大きな誤りはその点の看過にあると主張し続けてきました。この批判は正統派の側にとっては単なる「いいがかり」にすぎません。というのは、確かに経済学のテキストの多くでは貨幣供給は「あたかも外生であるかのように」描写されてはいるものの、それはあくまでも説明の便宜のためであって、少なくとも現実の金融政策実務に関しては、正統派においてもMMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンとほぼ同様な理解が共有されているのは周知の事実です。

つまり、正統派にとってみれば、対立点は決して貨幣供給が内生か外生かにあるのではなく、両者の最大の対立点は、中央銀行が果たすべき役割についての把握にあります。MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは常に、中央銀行が政策金利を一定に保とうとする以上、貨幣供給は内生的に決まる以外にはなく、したがって中央銀行は貨幣供給をコントロールできないと主張しますが、その把握は、少なくとも金利一定を前提とする限り、正統派もまったく同じです。しかし、正統派にとっては、それはあくまでも金融政策の出発点あるいは「前提条件」にすぎず、その前提条件の上に立って、「その政策金利の水準を中央銀行がどのように決めるのか」を考えることこそが、正統派にとっての金融政策だからです。現実として金利が一定という経済は有り得ません。

つまり、MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンが中央銀行受動主義の立場であるとすれば、正統派は中央銀行能動主義の立場だといえます。前者すなわち中央銀行受動主義は、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という意味での中央銀行無能論とも言い換えれます。これが、「新しい貨幣的合意」へと進展してきた「正統派」の中央銀行把握とはまったく相容れないのは明らかな点です。

内生的貨幣供給については、レイのModern Money Theoryでは以下のように説明されている。

MMTは、中央銀行はマネー・サプライや銀行の準備預金をコントロールできないという「内生的貨幣」あるいは「水平主義者」のアプローチを共有しています。というのは、中央銀行は銀行準備に対する超過需要に対して同調する以外にはないからです(水平主義についてはMoore 1988を参照)。他方で、中央銀行の目標金利は、操作上は明らかに外生です。

レイがここで参照を求めているのは、バジル・ムーアの1988年の著作Horizontalists and Verticalists: The Macroeconomics of Credit Moneyです。それは、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給理論を代表する著作として知られていて、そこで定義されている水平主義者(Horizontalists)とはまさに内生的貨幣供給派のことであり、垂直主義者(Verticalists)とはマネタリストに代表される「正統派」のことです。この区分は、内生的貨幣供給派が貨幣は常に中央銀行によってあらゆる利子率に対してそれを一定に保つように供給される(水平の供給曲線)と考えるのに対して、マネタリストら「正統派」は、貨幣は利子率とは無関係に一定であるがごとく供給される(垂直の供給曲線)という誤った考えを前提としているという、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアン固有の把握に基づく主張がなされています。

しかし、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンらのこうした把握は、正統派にとっては単に「偽りの対立図式」にすぎません。というのは、正統派もまた、金融政策を実務的には「量の操作」というよりは「政策金利の操作」として把握しており、その局面では水平主義的なアプローチとまったく差はないからです。正統派は確かに、金融緩和とは要するに中央銀行が貨幣供給を増やすことと把握してますが、だからといってそれが「中央銀行による紙幣のばらまき」によって実現されているなどとは考えていません(いわゆるヘリコプター・マネーは通常の金融緩和とは意味がまったく異なります)。

それでは、正統派はなぜ、しばしば貨幣供給を「あたかも外生であるかのように」論じているのであろうか。それは、たとえば「中央銀行が金融引き締めを実行する」という状況を考えると、「政策金利を引き上げる」のと「貨幣供給を減らす」のでは、事実上ほとんど同じことを意味するからです(金融緩和の場合にはその逆になる)。

中央銀行が金融引き締めを実行するとは、具体的には「中央銀行が政策目標である銀行間の短期市場金利を2%から2.25%に引き上げる」といったことを意味します。このように中央銀行が短期市場金利をより高い水準に誘導するためには、中央銀行は、銀行全体への準備預金の供給を絞る必要があり、短期市場金利が上がれば、それに伴って銀行の貸出金利も上昇するので、銀行貸出の縮小を通じて銀行預金全体の縮小が生じます。それは、銀行による準備預金への需要そのものを減少させますから、政策金利の引き上げは通常、準備預金を含むベース・マネーと銀行預金を含むマネー・サプライ全体の収縮をもたらすわけです。

多くの「正統派」によるマクロ経済学教科書ではしばしば、金融政策の効果を説明する時に、この「政策金利から貨幣供給へ」の経路の部分がはしょられ、中央銀行があたかも貨幣の量を直接増減させているかのように描かれていますが、マクロ経済学の教科書が、読者に中央銀行の政策実務を理解させるためのものではなく、金融政策すなわち中央銀行による金融緩和や引き締めがマクロ経済全体にもたらす効果を理解させるためのものだからです。

要するに、「貨幣供給外生説」は正統派にとっての本質的構成要素ではまったくなく、単に説明の便宜のための抽象化にすぎません。その意味で、「貨幣内生説vs外生説」という対立図式は、正統派にとっては捏造以外の何物でもないのです。