原爆

下記はWSJのコラムです。アメリカは国家予算の30%もの金をかけて開発した原子力爆弾を使用しなければ、予算使途不明でトルーマン政権がもちませんでした。当時、アメリカだけでなくイギリスもドイツもソ連も、そして日本も原爆を開発中でした。原爆投下の是非についてより、ボクはアメリカによる無差別空爆は国際法違反で、日本の主導者を東京裁判で裁くならアメリカも裁くべきと思っています。

下記のコラムにあるように、アメリカ人はあまりに非人道的な原爆に対し正面から向き合うことすらできない軟弱な体質のリベラリズムが蔓延しています。マッカーサーですら原爆投下は「キチガイの所上」といい、多くの歴史学者も日本の教科書で教える内容と異なり、原爆投下の必要は全くなかったという論文を出しているように、原爆投下は、ドイツへの無差別空爆を合法化したいチャーチルにそそのかされたトルーマンが、ウラン型、プルトニウム型の2種類の「実証実験」をしたくて、実験結果を観察するために空爆を実行していない都市である広島と長崎へ投下したのです。当初は、日本人を世界から抹殺したいルーズベルトが京都と東京へ投下するという計画でしたが、ルーズベルト死後、京都、東京以外の11都市が選定され、その第一弾が広島と長崎でした。アメリカはさらに第二弾、第三弾も用意しており、まさに日本焦土化作戦でした。

文科省は国賊しかいないのでしょうか。歴史を捻じ曲げて教育するのは戦勝国の歴史で、敗戦国の日本の文科省が捻じ曲げて教育するのは、中国や朝鮮に魂を売り渡した国賊の歪んだ思想以外の何物でもありません。



【寄稿】原爆投下で救われた多くの命、日本人も

本土に侵攻していればはるかに多くの死傷者が出ていただろう

2020 年 8 月 6 日

――筆者のジョン・C・ホプキンス氏は原子核物理学者で、1974~89年にロスアラモス国立研究所のエグセクティブを務めた

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 75年前の8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾が落とされたことは強い嫌悪感と哀悼の念をもって受け止められている。しかし、原爆を使用していなければはるかに悲惨な結果になっていただろう。2つの原爆投下による日本人の死者数は推計12万9000~22万6000人。米国政府による1945年7月の報告書は、日本の本土に侵攻した場合の日本人死者数を500万~1000万人と見積もっていた。

 米国が1945年11月1日に計画していた本土上陸作戦は、連合国軍兵士15万6000人が欧州に上陸した1944年のノルマンディー上陸作戦をはるかにしのぐ規模になるはずだった。ドイツ兵5万人に立ち向かった同作戦では連合国軍の4400人が命を落とし、死傷者数は1万人を超えた。日本への侵攻には連合国軍から76万6000人が送り込まれる予定だった。

 日本侵攻は、ドイツ軍の不意を突いたノルマンディー上陸作戦よりも厳しい戦いとなっていただろう。日本はおおよその上陸日(10月下旬)と上陸地点(九州)を推測していた。

 侵攻に備える日本の防衛作戦の規模を米国が知ったのは戦後になってのことだ。米情報当局は1945年6月、日本兵35万人が九州防衛に当たると推定した。日本の降伏後、米軍は九州の日本人男性78万4000人を動員解除した。九州にはさらに57万5000人の本土防衛部隊がいた。ノルマンディーでは連合国軍と敵側との兵士の比率は3対1だったが、日本本土への上陸作戦では日本軍の方が数で連合国軍を上回る計算だった。

 日本はまた、米国の揚陸艦が兵士を上陸させる前に迎え撃つため、特攻機1万機以上を準備していた。さらに500万人近い日本の陸・海軍兵が、台湾、朝鮮、中国、満州、太平洋の島々で戦いを続けていた。

 民間人も動員されることになっていた。大日本帝国陸軍は1945年4月20日、「国土決戦教令」を制定し、あらゆる兵士は最後まで戦うべきであり、国民も最後の一人まで戦うべきだとした。あらゆる日本の兵士と民間人――女性や子供であっても――は戦死することを期待された。

 米国政府は日本兵の離島での激しい抵抗を見て、この戦争がさらに1年半、1947年春まで続くとの見通しを立てた。その場合の連合国軍側の死傷者数は170万~400万人(うち死者数は40万~80万人)に上ると予想した(1941年12月~45年8月には欧州と太平洋での戦闘で米国人40万7000人が死亡していた)。

 連合国軍側にとって、天候がさらに状況を悪化させていた可能性もある。1945年10月9日、米軍の本土侵攻前の集結地になる予定だった沖縄は時速140マイル(時速約225キロメートル)の暴風を伴う台風に見舞われた。米艦船や部隊は被害を受け、侵攻に半年程度の遅れが生じていただろう。1946年4月4日にも大型台風が襲った。さらに侵攻が遅れていただろう。日本軍は防衛力強化のために何カ月もの猶予が与えられるはずだった。

 一方、ソビエト連邦(1945年8月8日に日本に宣戦布告)は満州から日本の北方の島々に侵攻する準備をしていた。もし侵攻していれば、日本は自由な南部と共産主義の北部にほぼ間違いなく分断されていただろう。ベルリンの壁のようなものが東京にもできていたかもしれない。「北日本」の人々は、東ドイツや北朝鮮の人々のように何十年も苦しんだであろう。

 こうしたことは全て回避された。裕仁天皇は8月15日、日本の降伏を発表した。日本は1945~46年の冬に深刻な飢饉(ききん)に見舞われたが、米国が80万トン超の食糧支援を行い、事態は改善した。

 原爆投下で日本人の命が失われたことは痛ましい。だが、原爆を使用したことで、原爆がもたらしたものをはるかに上回る苦痛や死を防ぐことができた。米国はましな選択をしたのだ。