時事
MMTに対しては現在、世界および日本の経済論壇において、賛成論と反対論それぞれの立場から議論が展開されています。アンチもまたファンの一部とすれば、それはまさしく「MMTブーム」と呼ぶにふさわしい状況で、売名行為に似た連中まで大騒ぎです。
その論議において最も特徴的なのは、MMTに対する賛否が、あたかもマクロ経済の把握に関する主流派(orthodoxy)と異端派(heterodoxy)を区分けする一つの大きな分水嶺になっているように見える点にあります。これは、必ずしも「主流派」側の問題設定によるものではなく、両者を厳正に区別しようとする、MMTの側の明確な戦略的意図、或いは感情的意図の反映です。MMTを主張するような学者は只のバカと言われてきた腹いせに近いと思います。実際、過去から現在に至る経済学の流れを主流派と異端派へと真二つに分断した上で、前者がいかに誤っており、後者から生み出されたMMTがいかに正しいかを論じているのが、昨日書いた『Macroeconomics』です。
実のところ、MMTの言う「主流派」の中には、財政緊縮派ももちろん存在しますが、それと対峙して性急な増税や支出削減の危険性や無用性を訴え続けてきた反緊縮派も数多く存在します。そのような立場の論者としては、ポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツ、ラリー・サマーズ、オリビエ・ブランシャールといった名前がすぐに思い浮かび、MMT流の区分に従えば、日本のいわゆるリフレ派も、おそらくそのような意味での「主流派」ということになるでしょう。
注目すべきは、この「反緊縮」という政策論における表面的な一致にもかかわらず、クルーグマンやサマーズに代表される「主流派中の反緊縮派」がほぼ誰一人としてMMTを評価することはなく、逆にMMTの側もまた彼らをまったく評価していないという事実です。確かに一部には、MMTの政策論としての意義を限定付きで認める声もあります(例えば浜田宏一内閣参与のインタビュー「MMTは均衡財政への呪縛を解く解毒剤」)。しかしその立場の論者も、理論としてのMMTには手厳しい批判を行うことが多く、MMT側からすれば、この種の反緊縮派は、彼らにとっての友軍ではなく、明らかに敵なのです。
なぜ両者がこのように相容れないのかを知るためには、何よりもまず、「主流派」とMMTの理論的な違いはどこにあるのかを確認する必要があるので、薄く、軽く(ちゃんと見たら本になってしまうので(笑))見ていきます(笑)。MMTを代表すると思われるSoft Currency Economics II: MMT - Modern Monetary Theory Book 1(Warren Mosler著、初版は1993年)、Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems, 2nd Edition (Randall Wray著、2015年)、Macroeconomics(William Mitchell、Randall Wray、Martin Watts著、2019年)という3冊の書物を見ながら、両者の相違がどこにあり、その相違が何に基づいているのかを論じます。
これから明らかにするように、MMTと「主流派」の考え方の間には、一見すると異なっているようにみえていながら実は本質的には異なってはいない部分と、逆に表面的には似通っているが実は本質的に相容れないという部分の両者が複雑に混在しています。ですから、日本の経済学会のようにマルクスに啓蒙された左巻きとマスコミには全く違いが理解できないのでしょう。貨幣供給の内生性と外生性をめぐる「対立」は、前者の典型的な実例です。それに対して、いわゆる「ヘリコプター・マネー」論は、後者の実例の一つです。一般のメディアなどではしばしば、MMTは「お金を社会にばらまく」ヘリコプター・マネーの一種であるかのごとく紹介されていますが、実際には、MMTとミルトン・フリードマンからバーナンキに至る主流派内でのヘリコプター・マネー論とでは、その論理構造がまったく異なります。
続く
0コメント