時事
MMTと主流派との理論の違いを見るという作業において、最初に明確にしておく必要があるのは、この「主流派」とはいったい何なのかという点です。MMT は確かに貨幣数量説に基づくマネタリズムを徹底的に批判しますが、MMTが批判の対象とする「主流派」は、マネタリズムから合理的期待形成論を経て実物的景気循環論に至る「新しい古典派」のみを指しているわけではありません。
その「MMTが敵視する主流派」を最も明確に描写しているのは、Macroeconomicsの第30章にある「マクロ経済学における支配的主流としての貨幣的合意(the dominant mainstream New Monetary Consensus in macroeconomics)」こそが、その「主流派」の内実です。それは、マネタリズムや新しい古典派そのものではなく、それらの成果を批判的に取り入れて構築された、広義の意味でのニュー・ケインジアン経済学です。その代表的な担い手として取り上げられているのは、ポール・クルーグマン、マイケル・ウッドフォード、ベン・バーナンキらで、MMTによれば、彼らニュー・ケインジアンは、ケインズの名を語ってはいるものの、本質的には新古典派経済学の一分派としての亜流ケインジアン(Bastard Keynesians)あるいはその末裔にすぎないとしています(図参照)。
この「マクロ経済学系統図」が示すように、MMTにおいては、ポール・サミュエルソン、ジョン・リチャード・ヒックス、ジェームズ・トービンといったケインズ経済学における初期の代表的担い手たちは、すべてこの亜流ケインジアンのカテゴリーに括られていて、グレゴリー・マンキュー、アラン・ブラインダー、スティグリッツのようなニュー・ケインジアン、そしてバーナンキに代表される「マクロ経済学における新しい貨幣的合意」といったカテゴリーは、その流れの進化版として位置付けられています。
つまりMMTにおいては、マネタリズムや新しい古典派のような反ケインズ的マクロ経済学と真正面から闘い続けてきた彼ら新旧のケインジアンたちが、不埒にケインズの名を語る新古典派的亜種として一括りで敵側に追いやられているのです(笑)(排除の理論は左巻きの特異点ですが)。MMTはしばしば、ニュー・ケインジアンも含む「主流派」の側から、その強い党派性を指摘されていますが、それは実は、MMT自らが意図的に設定したこの「戦略的対抗軸」の反映でしかないのです。平たく言えば「レッテル貼り」です。
先々日に述べたように、MMTの出発点であり、かつその中核となっているのは、国債トレーダーであったウオーレン・モズラーによる以下の「発見」です。
政府の赤字財政支出(税収を超えた支出)は、政策金利を一定の目標水準に保つ目的で行われる中央銀行による金融調節を通じて、すべて広い意味でのソブリン通貨(国債も含む)によって自動的にファイナンスされる。したがって、中央銀行が端末の「キーストローク」操作一つで自由に自国のソブリン通貨を供給できるような現代的な中央銀行制度のもとでは、政府支出のために必要な事前の「財源」は、国債であれ租税であれ、本来まったく必要とはされないという理論(理屈)です。
このMMT命題の背後にあるメカニズムを最も簡潔に描写しているのは、Macroeconomics の第20章第4節Coordination of Monetary and Fiscal Operations です。レイのModern Money Theoryでその問題が取り扱われているのは第3章です。モズラーのSoft Currency Economics II は、ほぼ全編がこの問題の解明に当てられているといっていいでしょう。しかし、レイのModern Money Theoryとモズラーの書籍の説明は必ずしも明快とは言いかねますから、以下ではもっぱらMacroeconomics第20章第4節の説明を用います。
この表は、中央銀行と民間銀行のバランスシートによる資金循環分析を用いて、政府が行う赤字財政支出がどのようなプロセスを経て政府部門と民間非政府部門の間の資産負債の変化を引き起こすのかを明らかにしたものです。それは、以下の3段階からなっています。
■ステージ1:政府が100の赤字財政支出を行うために、同額の政府預金を中央銀行に創出する。
■ステージ2:政府が100の支出を行った結果、支出の支払いを受けた個人や企業が民間銀行に持つ銀行預金が100だけ増加する。その結果、民間銀行が中央銀行に持つ準備預金が100だけ増加する。それは、政府が中央銀行に持つ100の政府預金が、民間銀行が中央銀行に持つ100の準備預金に振り替えられたことを意味する。
■ステージ3:法定預金準備率が仮に10%であるとすると、ステージ2の結果、民間銀行は90の超過準備を持つことになる。そこで民間銀行は、その収益の得られない超過準備を処分して収益の得られる国債を中央銀行から購入する。その結果、中央銀行の保有する国債と民間銀行が中央銀行に保有する準備預金は90だけ減少する。
これらのプロセスから、政府が100の赤字財政支出を行った場合、最終的には、民間部門は10の準備預金と90の国債という形で、必ず同額の資産を得ることになります。
補足すると、まずステージ1では、政府が財政支出の便宜のために国債を見返りに中央銀行に政府預金を創出することが想定されています。これは多くの国で禁じられている「国債の中央銀行引き受け(財政ファイナンス)」に相当するように見えるかもしれませんが違います。中央銀行は同時に、制度的に必ず「政府の銀行」の役割を果たさなければならず、それは結局のところ、「中央銀行が国債(政府の債務)の見返りに政府に預金を与えている」ことを意味します。仮に政府が「財源」の調達のために支出の前にまずは民間銀行に国債を売却したとしても、Modern Money Theoryの第3章に示されている通り、最終的な結果は同じです。
この一連のプロセスで鍵となっているのは、ステージ3です。政府支出の結果として民間の銀行預金および民間銀行の準備預金が増加したとき、民間銀行がそれを国債に振り替えようとするのは分かりますが、その国債が必ず中央銀行の売りオペによって供給されるのはなぜかを考えればわかります。それは、「中央銀行は常に政策金利を一定の目標水準に保つ目的で金融調節を行っているから」です。政府支出の結果として民間銀行が中央銀行に持つ準備預金が拡大し、超過準備が発生すれば、それは必ず政策金利すなわち中央銀行が操作目標としている銀行間の短期市場金利を押し下げるように作用します。中央銀行はその場合、必ず保有する国債を売却して超過準備を吸収しなければなりません。というのは、中央銀行がそれをしない限り、政策金利を一定の目標水準に保つことはできないからです。
本来、中央銀行が政策金利を一定に保とうとする限り、金融市場におけるあらゆる資金需給の変化は、中央銀行の金融調節によって必ず相殺されます。その局面では確かに、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給理論がかねてから論じてきたように、中央銀行は「経済の必要に応じて通貨供給を増減させるしかない」きわめて受動的な存在となります。MMTの新奇性は、その観点を政府赤字財政支出の問題に適用した点にあります。
実は、「正統派」から見たこの内生的貨幣供給理論あるいはMMTの議論の最大の問題点は、この「中央銀行が政策金利を一定に保つ」という前提それ自体にあります。しかし、その課題について検討を加えるのは後に回します。
続く
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