時事
今日もMMTの続きです。
経済学派としてのMMTの一つの大きな特徴は、自らを正統派と対峙する異端派として位置付け、現代の主流派マクロ経済学を拒絶している点にあります。その主流派ないし正統派としてMMTの主な批判となっているのは、新しい古典派マクロ経済学というよりは、ニュー・ケインジアンによるNMC(新しい貨幣的合意)でしょう。これは、現代のマクロ経済政策、とりわけ金融政策に理論的根拠を提供しているのが、ニュー・ケインジアン経済学であるという事情を反映しています。もっとも、日本ではニュー・ケインジアンすら異端扱いし、カビの生えた古典経済学者が学界の主流を占めていますが(笑)。
MMT派はまた、新古典派的総合の系譜にある新旧のケインジアンを、亜流ケインジアン(Bastard Keynesian)と呼び、彼らと対峙し続けてきたジョーン・ロビンソンやハイマン・ミンスキーらを、自らを含む異端派としてのポスト・ケインズ派の先駆とし、それをケインズの本来のヴィジョンを受け継ぐ本流ケインジアンとして位置付けています。これは、カール・マルクスが、古典派経済学の始祖であるスミスやリカードウを、彼らを追随する「俗流経済学者」たちから区別し、自らをスミスやリカードウら元祖古典派の「真の」後継者として任じたことに非常に類似しています。もっとも、マルクスは始祖とする左巻きは世界の癌で、悪臭を放ち世界を混乱させます。
こうしたMMTの自己規定からも、またこれまで論じてきた事からも明らかなように、MMTと現代の主流派マクロ経済学は、「緊縮派」に対抗して政策的に同盟できる局面がないわけでありませんが、多くの部分において共存不可能です。つまり、MMTのある部分を受け入れるのであれば、それに対応する主流派マクロ経済学の一部は受け入れることができなくなり、その逆もまた真ということです。
とはいえ、それは、現代の主流派がMMTの「すべて」を受け入れ不可能であることを意味するものではありません。実は、MMTの中には、主流派にとっても何の変更もなくそのまま受け入れ可能な部分も確かに存在します。そしてそれは、これまでの主流派には大いに欠けており、MMTから積極的に学ぶべき部分でさえあります。
以下は、前に書いたウオーレン・モズラーによって「発見」されたMMTの中核命題の再掲です。
政府の赤字財政支出(税収を超えた支出)は、政策金利を一定の目標水準に保つ目的で行われる中央銀行による金融調節を通じて、すべて広い意味でのソブリン通貨(国債も含む)によって自動的にファイナンスされる。したがって、中央銀行が端末の「キーストローク」操作一つで自由に自国のソブリン通貨を供給できるような現代的な中央銀行制度のもとでは、政府支出のために必要な事前の「財源」は、国債であれ租税であれ、本来まったく必要とはされない。
驚くべきことに、この命題は、一言一句の変更もなく、正統派にそのまま受入可能です。さらに、MMT派が得意とする、政府、中央銀行、民間銀行部門、民間非銀行部門等のバランスシートによる資金循環表を用いた「財政と金融の協調」に関する分析も、それ自体として正統派にとって受け入れ難い部分はありません。というのは、それはMMT派が常々強調するように、単なる「会計的な事実」にすぎないからです。
正統派にとって受け入れ難いのは、MMTが示している会計分析ではなく、彼らがこの「政策金利を一定の目標水準に保つ」同調的金融政策を絶対視し、中央銀行による金利調整の役割を認めないことにあります。また、MMTは政府財政支出に関する実際的な意味での財源の無用性という把握から、政府の通時的な予算制約の無用性をそのまま導き出しますが、それも正統派には受け入れられません。確かに中央銀行の金融調節さえあれば個々の具体的な財政支出にいちいち財源は必要ないというのは正しいのですが、必ずしも政府財政の長期的持続可能性を無視してよいことを意味しないからです。
おそらくは自らを正統派と別するためにあえて付け加えられたこれらの無用な「拡張」を別にすれば、MMTの中核命題それ自体には正統派が問題視すべき点はないのです。それはむしろ、正統派の把握と補完的でさえあると言え、「中央銀行の金融調節を通じた財政の金融の協調」というMMTの把握それ自体は、財政および金融政策の実務的運営に関する重要な一側面であり、それは正統派の中で必ずしも実態に即して描写されてきたとはいえない部分だからです。
もちろん、正統派が貨幣外生説一辺倒でないことはマクロ経済学におけるヴィクセル以来の伝統からも明らかですが、初級の教科書などでは、金融政策のすべての出発点は中央銀行によるベース・マネー操作であり、それが信用乗数的なプロセスを通じてマネー・サプライを生み出すといった素朴外生説的な説明に終始しているものが多数です。より専門的な文献では、「信用乗数式はベース・マネーとマネー・サプライの需給関数から利子率を消去した誘導型であり、前者から後者への因果関係を示すものではない」といった注意が書かれていますが、それは必ずしも一般的でなく、かなり専門性を追求したものです。その意味で、財政政策と金融政策の実務的および会計的実態に即してそこに何が生じているのかを追求するMMTの姿勢は、モデルと現実との「距離」に無頓着になりがちな現代の経済学全体が学ぶべきところだと思います。
さらに、このMMTの中核命題は、市場関係者であったモズラーによって指摘されるまでは、誰によっても明確に指摘されることはありませんでした。それまでも、「政府が財政支出を行えば民間銀行部門のマネー・サプライが自動的に拡大する」とか「マネー・サプライが拡大すればベース・マネー需要が拡大するので、金利一定である限り、それに同調して中央銀行のベース・マネー供給も自動的に増える」といったことは、さまざまな立場の金融専門家によって指摘されてはいましたが、それらを、単なる断片的な把握を越えて、中央銀行による財政支出の自動的ファイナンスという一般的な「概念」にまで高めたのは、疑いもなくMMTの独自性です。
このMMTにもう一つ大きな意義があるとすれば、それは、政府が何らかの財政支出を行うという時に必ず生じる財源論議の無意味さを明らかにした点にあります。たとえば教育無償化にせよ子育て支援にせよ、新たな財政支出を伴う政策を実行すべきか否かが議論される場合に必ず争点になるのが、この「財源をどうするのか」という問題で、この場合の財源とは、一般には「増税」か「他の歳出の切り詰め」のどちらかと理解されていますが、MMT命題によれば、あらゆる政府支出は中央銀行による国債を含むソブリン通貨供給によって自動的にファイナンスされるのですから、そこで財源を云々することに意味はまったくないことが明らかになっています。
このMMTの把握は、正統派にも完全に受け入れられることは言うまでもなく、反緊縮正統派の多くも、従来から緊縮派を批判するに際しては、「重要なのは全般的な財政状況であるから、個々の支出の財源を云々しても無意味である」とか「その財政状況とりわけ税収は財源どうこうよりも経済状況により大きく依存する」と論じ続けてきました。MMT命題は、その反緊縮正統派の従来の主張とまったく整合的であり、MMTとの相違は、もっぱら政府財政の長期的維持可能性についての把握にあります。
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