時事
MMTの続きです。
これまで述べてきたように、正統派とMMTとの最大の相違は、マクロ経済政策という領域における政策戦略にあります。すなわち、正統派が基本的に財政政策と金融政策をそれぞれ独立した政策手段として把握しているのに対して、MMTは両者の分離を概念的に否定するもので、MMTによれば、政策手段として独立しているのは財政政策のみであり、金融政策はそれによって誘導される存在にすぎません。MMTのこの部分には、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの把握がそのまま受け継がれています。
つまり、MMTの体系には同調的金融政策が存在するのみであり、「中央銀行による金利操作」という本来の意味での金融政策は存在しないのです。実際、ランダル・レイのModern Money Theoryでは、金融政策については単に「ケインズの後継者たち--自らをケインジアンと呼んでいる連中と混同しないように注意されたい--は常に、金利政策が投資に大きな影響を与えるという考えを拒絶してきた」(p.282)と一言述べられているのみです。MMT派の教科書であるMacroeconomicsでは、第23章第5節で金融政策についての一般的な解説がきわめて手短に記されてますが、その最後は「したがって、金融政策が持つ総支出への影響と、そのインフレ過程への間接的な影響は、きわめて疑わしい」(p.366)という総括によって唐突に締めくくられています。
MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視していますが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定しています。MMTにとっては、金利とは何よりも中央銀行が政策的に決めるものであり、「市場の需給」とは無関係で、その金利は単に民間銀行がその資産を国債で持つか準備預金で持つかというポートフォリオ選択に影響を与えるにすぎないということらしいです。そして、民間銀行がその資産を国債と準備預金のどちらで持ったとしても、それらはともに政府の債務としてのソブリン通貨である以上、両者の間に本質的な相違はないとのべています。
それに対して、正統派における金利は、資金市場における資金の需要と供給、その背後にある財市場における投資と貯蓄によって、本来的には市場において決まります。それが、かつては貸付資金説と呼ばれていた、資金市場の需要供給分析のことです。その背後には、貯蓄における人々の時間選好と投資における投資家の収益期待が存在します。つまり、金利にはその背後に、待忍に対するプレミアムや投資に対する収益という実物的な基礎が存在します。したがってそれは、名目的に表示されてはいるものの、基本的には実物的な変数です。
その両者の関係を明らかにしているのが、「名目金利=実質金利+期待インフレ率」というフィッシャー方程式で、この実質金利は、短期的には財市場における投資と貯蓄の均衡によって決まりますが、長期的には実質経済成長率に収斂する傾向を持ちます。仮にこの右辺の期待インフレ率が中央銀行の目標インフレ率と一致しているとすれば、中央銀行はその目標を維持するためには、名目金利をこのフィッシャー方程式に合わせて設定しなければなりません。そうでないと、例のヴィクセル的なインフレあるいはデフレの累積過程が生じてしまうからです。
正統派は、他方で金利の持つ市場調整機能が十全に発揮されるのは基本的には完全雇用時であり、不完全雇用時には中央銀行による金利設定の裁量余地がより大きくなることを認めています。というのは、労働市場にスラックが存在する不完全雇用経済では、中央銀行が金利を政策的に引き下げることにより、投資と所得と貯蓄を同時に増加させることができるからです。フィッシャー方程式を用いていえば、中央銀行は完全雇用時には名目金利を右辺に合わせて設定しなければならないのに対して、不完全雇用時には逆に、名目金利の引き下げを通じて実質金利の引き下げをもたらすことができます。このようにして行われる金利の調整こそが、正統派にとっての金融政策です。
このように、MMTと正統派との間に横たわる金融政策あるいは金利の役割についての認識上の隔たりはきわめて大きく、MMTはしばしば、正統派が時に用いる貸付資金説的な把握を、赤字財政による金利上昇や民間投資のクラウド・アウトといったその結論とともに否定します。しかし正統派の側からすれば、MMTの金利についてのきわめて非市場的な把握は、単に中央銀行の裁量余地が大きくなる不完全雇用での状況を一般化したにすぎません。また、そこにおいてさえ、金利の役割は極度に矮小化されています。それはいわば、経済学でこれまで展開されてきた金利についての数百年にわたる考察の大部分を無視しているようにさえ写り、この連中は一体歴史を学んでいるのかと呆れてしまいます。
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