時事

MMTの主唱者たちによれば、MMTと正統派の最も大きな相違の一つは、前者が貨幣内生説であるのに対して後者は貨幣外生説を信奉している点にあります。しかし正統派にとってみれば、貨幣内生と外生の相違は、単に現実を理論化する場合の抽象の仕方の相違にすぎません。実際、近年のニュー・ケインジアンのモデルも含めて、ヴィクセルに発する系譜のモデルは基本的にすべて貨幣内生です。

正統派にとっては、本質的な対立点はまったく別のところにあり、貨幣供給の内生性を強調する議論は、一般に利子率の外生性を絶対視する「同調的金融政策」の是認ないしは擁護に陥ってしまう点にあります。それが、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という中央銀行無能論です。

その立場は、古くは真正手形主義と呼ばれアメリカ南北戦争前の論争です。ランダル・レイの1990年の著作 Money and Credit in Capitalist Economies: The Endogenous Money Approachでの学説史が示すように、ポスト・ケインズ派の内生的貨幣供給論は、まさしくその系譜の上にあります。当然ながら、MMTによる「赤字財政の拡張によって貨幣(ソブリン通貨)の拡張を誘導する」という政策戦略も、その延長線上にあります。

以下でみるように、正統派はこれまで、この同調的金融政策を厳しく批判してきました。インフレやデフレを伴う貨幣的な攪乱の背後には、必ずといってよいほど、この同調的金融政策が存在し、それを煽る勢力がありました。その政策批判の系譜は、19世紀初頭のリカードウから19世紀末のヴィクセル、さらには20世紀後半の日本にもありました。

経済学の展開の中で、同調的金融政策の持つ問題性を最初に理論的に明らかにしたのは、クヌート・ヴィクセルです。それが、ヴィクセルの主著『利子と物価』(1898年)で展開された不均衡累積過程の理論です。

ヴィクセルのそもそもの発想は、出発点としては内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンと同じでした。というのは、「古典派の中心的な物価理論である貨幣数量説は、中央銀行が貨幣をどのように供給するのかを無視しているため、現実の適切な近似になっていない」というのが、自らの理論を導くに際してのヴィクセルの問題意識であったと解説されています。

ヴィクセルは、社会で実際に用いられる貨幣が、数量の限られた貴金属ではなく、帳簿や証書上にのみ存在する簡単に創造可能な「信用貨幣」である以上、物価理論もその前提に基づいて再構築されるべきだと考えました。その信用貨幣は、中央銀行から民間への信用供与を通じて供給されます。したがって、「貨幣供給は中央銀行が外生的に設定した利子率に対する民間の資金需要によって内生的に決まるように定式化されるべきだ」というのが、ヴィクセルの基本的な発想です。この図式は、まさしく内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの水平主義そのものですが、同じなのはここまでです。

この「利子率外生、貨幣内生」の水平主義世界では、中央銀行は貨幣供給量をコントロールはできないのですが、利子率は「勝手に」決めることができます。というよりも、中央銀行はとにかく利子率をどこかに決めなければなりません。

例えば、毎年5%成長している経済で、中央銀行が利子率を2%に設定したとします。成長率が5%ということは、銀行から資金を借り入れて投資を行った場合の収益率もほぼ5%程度と考えることができます。それは、中央銀行が利子率を2%に設定した場合、民間の人々は2%の投資コストで5%の収益を得られてしまうことを意味します。こうした状況が続けば、民間の資金需要そして貨幣供給は無制限に拡大していくことになります(笑)。その結果は、仮に貨幣数量説を前提とすれば無制限のインフレです。中央銀行による信用貨幣の供給は「帳簿上の操作」のみで可能なのですから、それを制約するものは何もありません。同様に、中央銀行が利子率を過度に高く設定した場合には、逆のメカニズムを通じて累積的な貨幣収縮とデフレが生じることになります。

それでは、インフレにもデフレにもならないようにするためには、いったいどうすればよいのであろうかというと、「中央銀行が利子率をインフレもデフレも起きないような水準に設定する」となります。そのインフレもデフレも起きないような水準の利子率が、ヴィクセルが定義する「自然利子率」と呼ばれるものです。この率は、長期的には経済成長率に収斂する傾向を持つと考えられるので、上の設例では5%程度です。しかし、現実の経済では、自然利子率それ自体が失業率や設備稼働率を含むさまざまな循環的要因に左右されるため、中央銀行が設定した利子率が本当に自然利子率に適合したのか否かは、基本的には事後的な物価動向によってしか分からりません。

いずれにせよ、このヴィクセル的世界では、中央銀行が利子率を適切に調整しない限り、マクロ経済の安定化は実現できないということになり、中央銀行が利子率を適当に固定してそれに同調しているだけの場合、経済は必ずインフレかデフレのいずれかの累積過程に陥ってしまうからです。つまり、このヴィクセル的世界では、マクロ安定化はひとえに中央銀行の金利調整、すなわち一般的な意味での金融政策に委ねられることになります。それは中央銀行には貨幣を必要に応じて供給する以外の役割はないという、MMT的な金融同調主義あるいは中央銀行無能論とは対極にある事実です。

要するに、同じ「利子率外生、貨幣内生」ではあっても、ヴィクセルとMMTの政策的結論は正反対と言えるほどに異なります。両者は明らかに、それぞれ根本的に対立するマクロ経済把握と結びついていて、その証拠にMMT派はこれまで中央銀行による政策金利調整を重視するこのヴィクセル的な把握を、その「自然利子率」という中核概念ともども批判し続けてきました。その実例の一つは、MMTの主唱者の一人であるビル・ミッチェルによる2009年8月の8月のブログ記事 The natural rate of interest is zero!です。そこでは上記で論じた事とほぼ重なる事柄が、まったく逆の評価に基づいて論じられています。

神宮社中

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